Fiddler on the Roof 階段の下は異世界?
2017/10/18
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今更ですが、Fiddler on the Roof の話。
10月に3回、12月に2回で計5回も見ると演出部分でも色々な気づきがありました。
- 舞台を客席側に銀橋風に拡張してあるのでオケピットの中の様子は伺えず、指揮者の頭だけが見えています。その指揮者は帽子をかぶっている。
最初はユダヤの話なので舞台上の役者に合わせて帽子をかぶっているのかなと言う程度に捉えていましたが、長女の結婚式の場面ではオケは劇中の楽団そのもので、それゆえに指揮者は帽子をかぶっている。
結婚式で宴もたけなわ、ロシア人憲兵が乗り込んできます。式をブチ壊しに来たのですが、一旦は止んだ演奏を続けるように指揮者に命じます。
完全に劇中の登場人物なのです。(2回目に気付いた)
そもそもオケピットを完全に覆い隠さずに銀橋風にしてあるのはこの演出のためでもあるのでしょう。
- 初日、2日目の座席は最前列付近の上手側でした。その位置から見ると長女と次女が父に結婚の許しを請う時にテヴィエの表情は見えますが娘の顔が見えない。許しを得た瞬間にどんな演技をしているんだろう?と考えながら見ていた訳です。
ところが三女が父に許しを請う場面では、逆に娘の表情は見えるけどテヴィエの顔が見えない。つまり左右逆の位置関係になっている。三女は駆け落ち後にもう一度、テヴィエに話をしに来ますがこの時も同じ。
これはテヴィエが娘の結婚を許すことができるかどうか?を示しているのです。
更に妻のゴールデがテヴィエに三女の駆け落ちを告げるシーンもゴールデが右、つまり上二人の娘と同じ位置関係。三女だけがテヴィエの理解の範疇を越えていることを示唆している。
正直、正面や後方の席から見ていたら自分には何度見ても気づけなかったとはず。
最前列端の座席で極端に横方向から見ていたからこそ気付くことができた。ほんとに何が幸いとなるかわかりません。 - 最後に三女がフィヨルカと共に一家に別れを告げに来るシーン、彼女は上手側から現れる。そしてテヴィエはようやく娘を許す。
三女側にもテヴィエを説き伏せようとするのではなく、せめて最後の別れをという心情の変化(諦めかもしれません)があったことを示している。そして二人は舞台袖、横方向ではなく舞台奥の階段から去るのです。お互いがギリギリまで歩み寄ったことを表している。 - こういった演出は初演から引き継がれているものなのだろうか?
左右の位置関係は最初からあったんじゃないかと思う反面、舞台奥が下り階段になっているのは、おそらく今回の再演版での独自演出のように思える。階段じゃなくても舞台奥に去ることは可能な気もするが、仮に全てが初演を踏襲しているなら、賞レースに絡むことも無いように思えるし…
(とはいえFiddlerがノミネートされたのは、リバイバル作品賞、主演男優賞、振付賞の3つで演出賞には入っていない) - モーテルのミシンもtraditionを破壊するもの、テヴィエが理解できないものの象徴として舞台上に現れる。
直後がフィヨルカと一緒のところをテヴィエに見つかった三女ハバが、覚悟を決めて結婚したいとテヴィエに許しを乞う上述の場面だし間違いない。3回くらい映画見てるのに今回初めて気付いた。我ながら情けないw
テビィエはミシンを見に来たといいながら、実際には見ずに帰るし端から興味が無いのだろう。(ハバとの口論でミシンどころじゃなくなったとも取れるが)
- 今回のリバイバル版Fiddlerで特に気に入っているのが、広大なステージとこの舞台奥の階段!
劇場に入ると最初から幕は開いていて、舞台上には殆ど何もありません。舞台奥に穴が開いているのは何となく分かるのですが、どういう構造になっているのか?今ひとつつかめません。
舞台はヴァイオリンの有名なメロディーと共にテヴィエの語りで始まります。語りが進むに連れて、その舞台奥の穴から階段を登ってアナテフカの住人が現れるのです。この時は照明が薄暗く、テヴィエの語りに気を取られていると気が付かないかもしれない。(私も1回目はそうだった)
そしてテヴィエのTradition!の掛け声とともに階段を登りきった村人が一気に前方に押し寄せ、舞台上も徐々に明るくなるのです。
この一連の流れが幻想的で素晴らしい!一気に引き込まれます。ほんとに鳥肌モノでした。 - Traditionで何度も床を踏み鳴らすのもシビれます。Traditionだけでなく、その後もアンサンブル曲では何度も大勢で床を踏み鳴らすのですが、ほんとにカッコいい。これは初演からの演出ですかね。サントラにはその音が入っていないのが残念で…
- 10月に3回見た結果、この舞台奥の階段の下はテヴィエから見た異世界を表しているに違いないと確信。
- 冒頭テヴィエは現代人の姿で登場する。故にかつてこの地に暮らしていたアナテフカの住人たちは舞台奥から現れる。階段の下は過去の世界。
- Tevye’s Dream(テヴィエが見た悪夢のシーン)で、夢に登場する死者は舞台奥から現れる。階段の下は死後の世界。
- 結婚式のシーンのロシア人憲兵は舞台奥から現れ、三女の駆け落ちのシーンでロシア正教会まで探しに行ったゴールデも舞台奥から現れる。更に上で述べたようにテヴィエに別れを告げたあとハバとフィヨルカも舞台奥に去る。階段の下はロシア人居住区。
- これで間違いないと思ってたんですよ。いや、今でもそうだと思っている。
でも12月にこの辺りを確認すべく2F席から見たのですが(4回目)、この設定が貫かれていない。
具体的には次のような人々も舞台奥の階段を登って登場していたのです。- ミシンを見に来るときのゴールデと娘達
- 2幕のThe Rumor(パーチェックがキエフで捕まったという手紙が届くシーン)の村人達
- アナテフカからの立ち退きを迫られる場面(Anatevkaを歌うシーン)での村人達
- コレほんと惜しい。せっかく舞台奥の世界に意味を持たせている(に違いない)のに、前述のテヴィエ側の人間を舞台奥から登場させるなんて。その人達は普通に左右の舞台袖から現れても何の問題もないだろうに。
- 縦方向は物理的な距離ではなく、越えられない壁なんです。
- 駆け落ち後、ハバが再度テヴィエに結婚を認めさせようとする場面(サントラでいうとChavaleh / Tevye’s Denialのところ)でも、舞台中央をカーテンで仕切ることでそれを表している。
ハバはカーテンを開けて許しを請いに現れるが、テヴィエは娘を舞台奥へ押しやりカーテンを閉めて拒絶する。 - その後、アナテフカカからの立ち退きを迫られる場面でも、緞帳が降りるラインあたりに大きな柵が現れて村人はその手前の舞台前方に追いやられる。
- 駆け落ち後、ハバが再度テヴィエに結婚を認めさせようとする場面(サントラでいうとChavaleh / Tevye’s Denialのところ)でも、舞台中央をカーテンで仕切ることでそれを表している。
- この2つをみても間違いない。それだけに前述の舞台奥の設定が徹底されていないのは残念。それとも何か見落としがあるのだろうか?
あとは細かい部分
- テヴィエとゴールデは身長差がある配役ですが、3姉妹とその夫は3組ともほぼ身長差がない。これも時代変化を示す演出じゃないかと思うんだけど、どうなんだろう。単なる偶然?
何度も再演されていてロングランの可能性は低いからこそ可能な気がするけど、万一ロングランしたら凄いシバリになるよね。(結局、ゴールデ以外はキャスト変更無しでクローズした) - 三女のハバが眼鏡っ子だった。時代は18世紀末頃の設定らしいが、実際はその時代に貧しいテヴィエの家庭で眼鏡を買う余裕があるのだろうか?軽くググったけど分からなかった。ハバが本好きの設定だから安易に…とまでは言わないが、観客に分かりやすいようにかけさせているような気が。
ゴールデには、本なんか読んでも結婚相手は見つからない、とまで言わせているのに、経済的に可能だとしてもはたして買い与えるだろうか?と感じる。(映画のハバはメガネを掛けてない)
ルックス的には眼鏡っ子いい!w と思う反面、理屈で考えると突っ込みどころな気も。テヴィエは女の子にも教育を与えることに理解を示しているし、娘にはとことん甘いから買い与えるかも…と思える人物像ではある。
- 1幕後半の見せ場である結婚式のシーンの中のボトルダンス、5回見た内2回落っことした。結構な確率で失敗するんだなぁという感想。とは言っても床にまでは落とさず姿勢を崩しながらも途中でキャッチ、そこでまた客席が湧くわけ。考えてみればリアルな結婚式でもそうやって盛り上がるんだろうし、絶対落としちゃいけないってわけでもないのでしょう。(トニー賞のパフォーマンスは結婚式のシーンだけど、ボトルダンスはカットされているので、下に映画版の同シーン)
- ラストシーンで、肉屋がテヴィエに別れを告げにくる場面、テヴィエが見ていない隙に肉屋が荷車にお札を何枚か忍ばせていた。おそらく映画にはなかった描写。結婚の件で恥をかかされたにもかかわらず、散り散りになる同胞のことは気遣う面を見せているのは非常に良い。迫害され続ける少数民族の結束を示しているように感じた。
- これは単なる感想ですが、結婚した娘三人の内、その後幸せな人生を送れるのはどう考えても長女だけだよね?その長女ですら大変な苦労をするはずで、後の二人は苦労はしたけど幸せだった…とすらならなさそう。
- ハバが最後の別れを告げに来るシーンでは、彼女は頭にスカーフをしていません。フィヨルカと結婚するためにユダヤ教から改宗したわけです。でもゴールデが我慢できずハバに駆け寄り自分のストールを娘の頭にかぶせます。
ラストに村人がアナテフカを離れ流浪の旅人となるシーンでは、フィヨルカの隣を歩くハバはストールをかぶったまま。ということは、やはりロシア人社会に完全には受け入れられず苦労したってこと。シベリアに行った次女は言うまでもない。
最後にどうしても気になる部分について。
テヴィエ役の人は最初と最後に現代人として赤いジャンパーを着て本を読みながら現れる。帽子をかぶっていないのでユダヤ系ではないと考えてもいいのかもしれないが、彼がそのまま上着を脱ぎ帽子をかぶってテヴィエになるのだから、大多数の観客はユダヤ系の子孫が過去を振り返っているととらえるはず。
これがものすごくひっかかる。
ユダヤ系でもなければアメリカ人でもない自分は、このシーンでどうしても現代のパレスチナ問題が頭をよぎる。
しかもラストは現代人の姿としてテヴィエ役は荷車を引くのです。かつてのアナテフカの住人達と共に。
問題提起なのかもしれませんが、無くていいのにと思う演出です。
もっとも初見だからそう思うのであって再演する以上は過去に無いものを足す必要があるのでしょうね。