NT Live 夜中に犬に起こった奇妙な事件

   

NT Live版「夜中に犬に起こった奇妙な事件」を見た。NT Liveとはイギリスのナショナル・シアターで上演された舞台を映像収録し映画館上映するという企画である。ストレートプレイが中心でたまーにミュージカルもあるようだ。このNT Liveで初めて見た作品がこの「夜中に犬に起こった奇妙な事件」(通称夜中犬)で2016年の初回上映時だった。ミュージカルオタクの私はそれまでストレートプレイ自体をほぼ見たことがなく、その斬新な舞台に大きな衝撃を受けたのだが、その時はなんかすごいものを見た!という印象だけが残った。NT Liveは上演期間や回数が短いため、何度も見て咀嚼することが難しいという欠点?があるのだ。その後2018年のアンコール上演時に、この舞台の”ある仕掛け”に気付き大興奮。そして今回2021年権利切れのためNT Liveでは最後の上映になるということで見納めてきた。その後原作小説も読み新たな気付きを得たのでここにまとめておく。

原作はイギリス人作家によるベストセラー小説だそうだ。(あらすじなどはWikiでどうぞ)

素晴らしい演出

1幕はゆったりした展開で人によっては退屈に感じるという感想も見かけた。だが中盤に母親の手紙を見つけて以降は徐々に緊迫感を増していく。手紙の母親が息子との思い出を語るかたわらで鉄道模型のジオラマを組み立て続けるクリストファー。最初は駅や木や人などを丁寧に並べているが、手紙が進むにつれて無造作に線路をつなげていくだけになるのが、彼のキャパシティをオーバーしていく様を表す。そしてウェリントンを殺したのが父親のエドだということを知ったクリストファーがもう彼とは一緒に暮らせないとロンドンの母親のもとへ行く決心をするとともにクリストファーが組み立てていた線路を模型の列車が走りだす1幕ラストの演出は圧巻だった。

2幕前半はロンドンへの単独冒険旅行だが、人混みに入り一人で鉄道に乗るクリストファーが情報過多で混乱する様子がプロジェクションマッピングやアンサンブルキャストの動きで見事に表現されており、この舞台最大の見せ場になっている。この舞台のプロジェクションマッピングの使い方は素晴らしい。他の作品でよく見かけるきれいな背景映像を見せるだけのプロジェクションマッピングとは全く違い、文字や数字があふれだすことでクリストファーの心の中を映し出したり、線の描写で地図の区画やエスカレーターの階段を表現したりとクリストファーには他の人たちとは世界が違って見えていることを表現しており、それが独自の魅力になっている。

更に2幕ではこの舞台が「クリストファーが自分の体験を書いた本を元にしたお芝居を学校で上演している様子を我々が観客として見ている」という体裁をとっていることが徐々に明かされていく。これに気付いたときにはとても興奮した。印象的な視覚効果だけではなく、物語の構造にも仕掛けが施されているのだ。具体的には以下のようなヒントがある。

  1. 冒頭でシボーン先生がクリストファーに「この本をお芝居にして学校行事で上演しましょう」と提案する。
  2. するとピーターズ師が「じゃあ私は警官役をやりましょう」と言うと、クリストファーは「警官にしては年を取りすぎている」と返す。
  3. その後、スウィンドン駅でクリストファーがロンドン行きの列車に乗ろうとするとピーターズ師(を演じている役者)が警官としてあらわれるが、クリストファーは再び”Too old!”「年を取りすぎている」と言う。
  4. 列車がロンドンに到着すると、ピーターズ師がまた警官役としてあらわれるが、クリストファーが「その警官じゃない」と指摘し、別の人が警官役として現れる
  5. ロンドンの母親ジュディとミスター・シアーズが暮らす家で、ミスター・シアーズがクリストファーに飲み物を出すと、クリストファーが「そこは母さんがミスター・シアーズに怒ってから飲み物を出したんだ」と指摘し、2人は言われたとおりにやり直す
  6. 数学の上級試験の場面で、クリストファーがお気に入りの証明問題の解答を説明しようすると、シボーン先生がクリストファーに「みんなは証明問題の答えには興味がないと思う。どうしても説明したいならカーテンコールが終わってからにしたら?そうすれば帰りたい人は帰り答えを聞きたい人だけが残ることができると説得。

という具合に怒涛の種明かしが始まり、観客はどこかで劇中劇であることがが気付けるようになっている。そしてラストシーンでは、クリストファーの「本を書いた」の後にシボーン先生が「みんなでお芝居にもしたわよね」ともはやヒントではなく種明かしをし、カーテンコールではヒント6で説得されたクリストファーによる証明問題の回答が見られるわけだ。
(にもかかわらず初見時は最後の方で第4の壁を破っていたなあという感想にとどまり、劇中劇であることが分からずじまいだった私である)

さらに劇中劇を前提とし振り返ると、1幕にも劇中劇であることを示す痕跡は存在した。そもそも冒頭のシーンはまだ書かれていないはずの本をシボーン先生が朗読する形で始まっている!他にも取り上げられた書きかけの本を探す時に父親の部屋で見つけたものを順番に上げていく場面で「ビスケットと木製スプーンを担当する人がビスケットをかじっていたりスプーンを上げるのが遅れたりする」のはお芝居に協力している人の緩さやミスの表現ではないか?   

私はNT Live鑑賞後に原作小説を読み、小説がクリストファー自身によって書かれたものであることが徐々に明らかになる体裁である以上、この舞台がそのクリストファーが書いた本をお芝居にしたものでありそのことが徐々に明らかになっていく構成を取っているのは物語を伝える媒体を変換した結果必然的に生まれた演出ではないかと感じた。

劇中劇を演じているのは誰だ?

では劇中でクリストファー作の舞台を演じる人達には誰が想定されているのか?

クリストファー役は当然彼自身だとして、彼の通う学校が特別支援校である事と実際に演じている俳優たちの年齢を考えると、生徒はクリストファーのみで残りの人は学校の先生や関係者などクリストファーの周囲にいる大人達に違いない。

だとすれば、シボーン先生、校長先生、ピーターズ師(神父さん)、アレクサンダー夫人(近所のおばあちゃん)役は本人だろう。そしてシアーズ元夫妻は協力してくれるはずがない。だからミセス・シアーズ役は校長先生(役の俳優が)が担当しており、これも「この舞台がクリストファーの本を元にして学校で上演したお芝居である」体裁をとっている事を示している。ちなみにミスター・シアーズ役の人はロンドンの彼の家のヒント5のシーンで、ダメ出しを受けたジュディがクリストファーに飲み物を出す前に怒鳴られた時少し笑っているように見える演技だった。これもミスター・シアーズ役は本人ではなく別の誰かが担当していることを示しているのだと考えられる。

そしてエドとジュディ、クリストファーの両親である。この2人は当然本人が自分自身の役を演じているはずだ。その証拠として両親の演技にはコミカルな要素が無い。原作小説には特に笑いを取るような箇所は無く(これは冗談が理解できないクリストファーが作者である以上当然)しいて言えば1幕序盤でクリストファーが近所で聞き込みをしているときに「ウェリントンはフォークが殺された」と言われた男性が驚く場面が小説にも存在するが、クリストファー自身は食事用のフォークと農業用を間違えるといけないから言い直したと至極真面目である。だが舞台ではコミックリリーフ的な場面が数多く追加されている。にもかかわらずクリストファーの両親がセリフや演技で笑いを取る場面は一切なかったはず。(ああ、もう一度見て確認したい…)先ほども触れたヒント5のシーンで、クリストファーのダメ出しを受けた2人がやり直す際にミスター・シアーズ役の俳優は少し笑顔を見せるが、母親役であるジュディ本人は過剰なまでの真剣さを見せている…と感じられるようにジュディ役ニコラ・ウォーカーは演じていた。父親のエドも上級試験後クリストファーに手応えを聞いたあとの「ありがとう…」のセリフでは感極まったような演技を見せている。そうか!他の大人たちはレクリエーションの一環としてクリストファー作のお芝居に参加しているがエドとジュディの2人にとってこのお芝居は(たとえそれが楽しいものばかりではなかったにせよ)愛する息子との思い出そのもの。熱が入るのも当然だしお芝居の中であらためてクリストファーと向き合っているのだ。主人公であるクリストファーを含め3人共大きな欠点を持ち一度崩壊しかけた家族ではあるが、一緒にこのお芝居をつくったことで新たな家族の在り方にたどり着けたのではないか?
両親以外ではシボーン先生もこのお芝居に真剣に取り組んでいるように描かれている。彼女はクリストファーの成長を促すように辛抱強く向き合う一方でラストの「何でもできると思う」という言葉には少し悲しげな表情を見せるだけで肯定も否定もしない。

原作小説を読む前は無機質でクールな印象を受けた舞台だが、一人称形式で完全に主人公の視点のみで進む小説は舞台以上に無機質であり、実は舞台化で施された劇中劇という手法で、原作小説の持つトーンを再現する一方で小説では見えにくかった両親とシボーン先生の想いが感じとれるように、実は小説に比べて情緒的に演出されているのだと気づいた。

その他いろいろ

物理的なセットを極力排した演出が印象的だったが、例えば自宅に帰ってきたときにクリストファーが利用するベットや玄関マットなどをアンサンブルキャストが表現していた理由がよく分からないというかイマイチしっくりこない。クリストファーの目には人間も家具などの物も同じ背景としてしか映っていないということか?しかし同じようにクリストファーが玄関マットを利用する時にアンサンブルキャストはおらずクリストファーが同様の動きをしているだけの場面もあり、その使い分けも分からない。劇中劇的には学校劇でよくある(とはいえ創作物の中でしか見たことが無い気がするが)すべての生徒が出演するための森の木の役などと同じで学校の生徒の役を表している?だとすればちゃんとした役は大人が担い、家具などは生徒が担当しているのは舞台が特別支援学校であることを考えるとかなりブラックな表現ではないだろうか…これは考えすぎな気もする。

あとネットで見かけたなるほど!な気付き。

すごい!確かに方眼に沿って動いていたと思う。本当に様々な形でクリストファーの特性を表現していたんだなあ。
バックステージもの…この発想はなかった。
ここはNT Liveでは見られない部分だけど、見てもこの感想には至らないと断言できるw 凄い視点です。

あーまた見たくなってきた。何年か後に再上映可能になることを願っています。

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