映画ディア・エヴァン・ハンセンはなぜ舞台と違うのか?

      2021/12/05

映画版ディア・エヴァン・ハンセンを見た。(BW版を見た時の感想)
アメリカでの公開が2ヶ月ほど早く、聞こえてくる評判が結構ぼろくそだったので期待半分不安半分だったが、映画はあれでよかったんじゃないか。確かに変更点は多くカットされた曲に対する不満もなくはないが、舞台と映画は媒体の違いもあって変更なしで作っても同じものにはならないんだと思う。ただ個人的には作品全体に対する思い入れがそれほどなく自分にとっては楽曲の良さが一番の魅力であるかるからで、舞台版のファンにとっては受け入れがたい部分が多々あるのも理解できる。

以下、舞台と映画の違いと何故変更されたのか?についての気付きを残しておく。

映画化にあたり変更されたこと

変更箇所はたくさんあるが大きくは2つに分類される

  1. 親サイドの思いを最小限にする
    舞台版から4曲カットされたが、このうち3曲を占めるのが親サイドの曲で、舞台最初の新学期のシーンでエヴァンとコナーの母親が息子をうまくコミュニケーションをとれない悩みを歌うAnybody Have a Map?、2幕最初にコナーの父親ラリーが無き息子への思いを歌うTo Break in a Glove、エヴァンの母ハイディがマーフィー家(映画のラリーは義父なのでこの表現は微妙だが)の夕食に招かれた後に歌うGood for You、この曲のみ母親のハイディだけでなくアラナ、ジャレッドも加えた3人がエヴァンを非難する内容ではあるが、該当するシーンはどれも短いシーンでさらっと流れている。
  2. エヴァンの罪をできるだけ軽くする
    正直なところ舞台のエヴァンは映画以上に問題行動が多い。以下いくつか例を挙げる。
    映画ではエヴァンは最初のマーフィー家での夕食で、コナーの母シンシアが先走る形でまるで誘導されたかのようにコナーとの思い出を語るが、舞台ではテーブルの上にあったリンゴを見て自身の思い付きで話し始める。(For Forever)
    コナーの遺書と思われているエヴァンの手紙を見たゾーイが自分のことについて書かれていることをエヴァンに尋ねるシーン(If I Could Tell Her)の最後で舞台版はエヴァンがゾーイにキスをしてしまう。ここでシンシアからディナーの準備ができたわよと声がかかるが、ゾーイは私は晩御飯要らないって言っといてといって去る。映画では見つめあうだけ。追悼会後、You Will Be Foundの最後にゾーイとエヴァンがキスをするのは同じだが、舞台版では二人はベッドに座っており結構情熱的なキスを交わし暗転して一幕が終わるのでその先があったのでは…と匂わせている。
    SNS炎上後、マーフィー家に嘘をついたことを告白し、ネット上にもすべてが嘘だったことを投稿しマーフィー家には迷惑をかけないで欲しいと訴えるが、舞台ではWords Failでマーフィー家に懺悔するだけで最後までエヴァンの嘘が公になることはない。
    …などが代表的な変更個所だが、他にも多くの変更によって舞台版に比べると観客がエヴァンの罪をかなり軽く感じられるように配慮されている。特にエヴァンとゾーイの関係は舞台に比べるとゾーイからのアプローチがかなり目に付くようになっており(にもかかわらず映画ではエヴァンとゾーイが男女の関係になったと取れる描写はない)、だまし討ち感を薄めエヴァン最低説を抑えようとしたように見える。
自分で撮った舞台写真に良いのが無かったのでTONY賞パフォーマンス動画

舞台版のテーマはもう古い

ではなぜそういった変更がなされたのか?だが、それは映画版エンドテロップ後のメッセージに集約されている。一番伝えたいメッセージが変わったのだ。

Wikiによると舞台版のワークショップが始まったのが2014年、最初の試演は2015年で2016年3月にオフブロードウェイで約2ヶ月上演後、11月にオンブロードウェイに移っている。ワークショップ前の企画段階はさらに1,2年は前であろう。当時はSNSの持つ危険性、炎上の怖さをメインテーマに据えるのはタイムリーで新鮮さもあったのだろう。舞台版はセットに大きなディスプレイを何枚もぶら下げ常時スマホ風の画面を映し出し、場面転換時にはスマホの通知音のような効果音を繰り返し流すことでSNS世代の物語であることを強調しているのが印象的だった。(とはいえこの演出を2021年の今映画に取り入れても陳腐化を早めるだけで何の目新しさもないはず)

だがネット世界の変化はとても早い。映画化の準備がいつごろから進められていたのかは知らないが、2021年現在SNSに潜む危険性はとっくに社会問題化しており、映画のテーマがその問題提起だけでは弱いと考えたのではないか?そこで舞台版にはないエヴァンの贖罪を描くことにした。
これは映画と舞台の媒体の違いからくるものだと思うが、舞台版はそこそこコメディ色が強くちょくちょく笑いを取りにくる。(なんならラスト果樹園のシーンですら)実はジャレッドは本来そのためのキャラクターで、先にあげた If I Could Tell Her の後もすぐにジャレッドとの会話シーンになって、「ゾーイにキスしようとしたって?死んだ兄貴のベッドの上で?マジかよ!」みたいな突っ込みを入れる。要所要所でジャレッドがエヴァンの行動に対しコメントすることで笑いをとると同時に観客のエヴァンへの思いを代弁してくれるわけだ。ただ映画で同じことをやったとしても舞台ほどの効果は得られないだろうし、ジャレッドの鋭い突込み抜きではエヴァンの行動はひどすぎて最後に贖罪を入れたとしても理解が得られないと判断されたのだろう。その結果としてエヴァンの罪を軽くするような変更が行われたのではないか。

また日本の劇場も同じであるが、BWの観客の平均年齢は結構高くて4,50代ぐらいだそうだ。(チケット代が高額で若者の財布には厳しい)当然舞台版制作時にはそのことが考慮されるわけで、若い層にも見てほしいと思いはあるにせよ観客のボリュームゾーンも意識した結果が親の思いも並行して描いた舞台版の脚本だったはず。映画化にあたりSNSの危険性だけではなくその先も描くことにした結果としてテーマがぶれないように親の思いはカットされることになった…と思う。舞台版が若年層に強い人気を得たことも、映画版がターゲットを絞り親世代を外しても大丈夫だという根拠になったのかもしれない。

かくしてメインテーマはYou will be foundのその先、
「もし悩みを抱えていたとしても一人ではない。誰かに相談しよう!」
になったのだ。(エンドテロップ後のメッセージはこんなニュアンスだった)
こうなるとエヴァンが観客にとって感情移入できないキャラクターなのは物語的に仕方ないにせよ、あまりにもクズ度が高い舞台版設定のままだと映画オリジナルであるコナーの痕跡を探してマーフィー家に届ける贖罪ですら受け入れてもらえなくなったり、ラストのメッセージが響かなくなるのを避けるためにエヴァンの罪を軽くする必要があったわけだ。

おまけ

とまあ、断定口調で書き進めてきたが、全ては個人的な想像(妄想?)にすぎないw 冒頭にも書いたが楽曲は好きだがあまり思い入れが無いのでBWオープン当時もインタビューなどの記事をほとんど漁っていないので。

映画で一番良かったのはゾーイ役のケイトリン・デヴァーで、個人的にはオリジナルブロードウェイキャストのローラ・ドレイファスより上。あとエイミー・アダムスのちょっとサイコパス入ってるのでは?という演技も良かった。舞台版と違い、コナーの両親は義父になっちゃったラリーは善人化というか少なくともゾーイに対しては良い親になっちゃって、代わりにシンシアが毒親…は言い過ぎかもしれないがこのままではゾーイとの関係も失いかねないぞ!と思うぐらいに問題ありになってた。役割分担?
最後に本筋に関係ないから省いたが、ラリーが義父になったりジャレッドのゲイ&有色人種化は多様性を認める昨今の流れが反映された変更だと思う。

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